Anthropicが、著名雑誌の編集者クラスのエディターを高給で雇おうとしている。このニュースを見つけたとき、編集者やライターの仕事を真っ先に淘汰すると言われてきたAIが、逆に編集者たちの「最高の転職先」になりつつあることにこの上ない皮肉を感じた。
Linked inに掲載された求人票によると、Anthropicの「Standards Editor(校閲・編集者)」の年収レンジはなんと$265,000〜$295,000。日本円で4,000万円を超える。アメリカの一般的な編集者の年収が7万ドル前後、有名雑誌の編集長クラスでやっと25万ドルを超えることを考えると、AI企業が今もっとも「編集者」に価値を見出し、給料を払っている企業ということになる。
さらに、NotionもThe New YorkerのライターだったAdam Iscoeを採用するなど、AI企業がこぞって質の高い書き手を高待遇で採用する流れが生まれはじめている。
興味深いのは、Anthropicが「Claude Explains」というClaudeによる技術者ブログのような取り組みを、ローンチから一ヶ月も経たずに終了させたこと。Tech Crunchで報道されてから、「AIが書いたものに人の編集の手を入れているのに、すべてAIが書いたかのように誤認させている」という批判が起こったこともあってか、Claude Explainsは報道から一週間も経たずにクローズした。もともとテスト版だったことが公式から説明されているが、Claude Explainsへの反応を見て、「匿名のAIではなく、誰が書いているかをはっきりさせる」という方向に舵を切ったのではないか?と個人的には見ている。
私は以前、「AIが書いたかものか」は問題ではないというnoteの中で、なぜ文章にAIっぽさを感じると人はがっかりしてしまうのかについてこんな考察を書いた。
なぜAI生成の文章にがっかりくるかといえば、読み手からすると「あなたのために労力を使いたくありません」と言われているに等しいからではないかと私は思う。この文章を紡ぐ時間は、その人にとって真っ先に削減・効率化すべき「無駄な時間」として捉えられていたのだな、というような。
そう、シンプルに、そこに愛が感じられないのだ。だからAIっぽさを感じるとがっかりするし、これまで好きだった気持ちごと蔑ろにされたような気持ちになる。
内容の正しさや情報価値の問題ではなく、手間暇を省こうとする愛情のなさが、AI文体への忌避感の根底にあるのではないかと私は思っている。文章にかぎらず、絵でも音楽でもプレゼン資料でも、あらゆるものが「AIでそのまま出力してきました」というのが丸わかりだとがっかりするのは、労力をかけずにこちらから時間やアテンションは奪おうとする相手への本能的な危機意識なんじゃないだろうか。
この数年は、いかに人の興味を引くかというアテンションエコノミーの全盛期だった。しかしAIによっていくらでもコンテンツの生成ができるようになった今、アテンションという希少資源の奪い合いは激化し、表面的なテクニックだけでは人は動かなくなりつつある。
広告も最終的には人に「ものを買う」などの行動を起こしてもらう必要があるのだから、インプだけ稼げても人の心を動かさないものには予算がつかなくなっていく。そもそも、もはやオンラインの数字のうちどれだけが生身の人間なのかすらわからなくなりつつある。1万PVのうち、果たして何人の「本当の人間」に読まれたのか?本当の意味で「届いた」と言えるのはどれだけなのか?
オンラインの方が精緻にデータがとれて分析ができるというのがこれまでの定説だったが、もはやそれは逆転し、実店舗やイベントに足を運んでくれる顧客がどれだけいるか、そしてそこでどれだけ親密なやりとりができているかの方が、はるかに信頼できる「事実」になりつつあるのかもしれない。
それでもオンラインで限りなくリアルに近い関係性を醸成しようとする手段が、AnthropicをはじめとするAI企業たちが熟練の編集者を雇うことでストーリーテリングに厚みを増し、アテンションではなく「アタッチメント(愛情)」を生み出すというシフトなのだろうと思う。


